”Bulgarian Rose”

トルコ全土を巡ってイスタンブールに戻ってきた。帰国の便までまだ10日もある。ボスポラス海峡が見渡せる宿のベッドに横になって地図をながめる。イスタンブールからもっとも近い隣国、ブルガリアに目がとまった。ブルガリアといえばヨーグルトと美女が多いということぐらいしか頭に浮かばない。どうやら国境を越える列車があるようだ。おいしいヨーグルトを食べながら街行く美女を眺めて過ごすのも悪くない。行ってみようか・・・。駅で聞いてみるとその日の晩にブルガリアの首都ソフィア行きの列車があるという。さっそく切符を手配した。

夜11時、トルコ特有の陽気な空気は消え去っている。駅は昼間の喧騒とはうって変わり、ホームには人がほとんどいない。照明は間引きされて薄暗く、旅の孤独をひしひしと感じる。ゆっくりと入って来た古い客車にはトルコ語ブルガリア語、英語の三つの文字でソフィア行きと書かれている。ベルもなく列車は動き始めた。車窓からの景色にも飽きてうとうとしていると車掌に叩き起こされる。パスポートを持って列車を降りろという。時計は夜中の2時を差している。暗闇の中、線路の上を歩かされ、飾り気のない小さな事務所に入る。若い係官は帽子のつば越しに鋭い目つきで僕をにらみ続け、手元に目を落とすことなく、パスポートにドンッと大きなスタンプを押した。国境を越えた実感をかみしめ、寒さに震えながら列車に戻って深い眠りに落ちた。目が覚めて、毛布にくるまったまま窓の外を見ると、原色溢れるトルコとはまったく違った景色が流れていく。深緑と灰色の建物しか目に入ってこない。朝もやに包まれたソフィアの駅に到着した。構内には多くの人が行き交っているが、どこか寒々しくて色がない。町を歩いていても、至るところに廃虚と化した家屋が放置され、20年前に崩壊した共産党時代の空気が色濃く残っている。空にはどんよりとした雲がたちこめて肌寒い。街角にはアルミのボウルを置き、毛布を被って座っている老人が目につく。標識や看板はすべてキリル文字で書かれていて読めないし、人に道を尋ねても英語がまったく通じない。宿を探して道に迷い、小雨まで降りはじめた。露店で買って食べたヨーグルトは舌がしびれるほど酸味が強い。気持ちは沈み、もはや美女を眺める精神的余裕もなくなってきた。なぜこんな所に来てしまったのか後悔しながら、ずぶ濡れになってようやく宿にたどり着く。一刻も早く他の町に移動したい。宿の主人と話していると、バラの谷と呼ばれるカザンラクに行くことをしきりに勧められた。バラには興味がなかったが、どこか日本的な響きの地名が気になり、翌日脱出するようにカザンラクへ向かった。

四方を山に囲まれ、温暖で空気は澄みわたっている。ローズオイルで有名なこの小さな町は、どこの家にもバラが咲き乱れ、中心部を外れると見渡すかぎりバラ畑が広がっている。カザンラクで産出される香料用のダマスクスローズは、キロ当たり5千ドル以上で取引きされる大変な貴重品だという。1年かけて栽培したバラは5月下旬から収穫する。訪れたのは6月下旬。すでに収穫祭は終わって国内外から集まった観光客も去り、町は祭りのあとのけだるい雰囲気に包まれていた。ここでも英語は通じず、人とコミュニケーションがとれない。バラを眺めながらあてもなく街外れを歩いていると、食料品店の前に杖をついたおばあさんが立っている。どうやら店の階段を上がれずに困っているようだ。何か助けてあげることができないか声をかけると、ブルガリア語で書かれたメモとお金を渡された。店で買い物をしてきてくれということらしい。言われた通り商品を買って店を出ると、おばあさんは家が近くだからついて来いという。僕は、花柄のワンピースを着て、眼光鋭く、どこか気品と孤独が漂うこのおばあさんに興味を引かれ、買い物袋を提げたまま後をついていくことにした。店から100メートルも離れていない家まで10分もかけてゆっくりと歩く。段差のたびに手を貸そうとするが、それを制止される。きっと誰の助けも借りず、いつも一人でこの道を歩いているのだろう。意外にもおばあさんは英語で話し始めた。名前はコンチワといい、画家。カザンラクで生まれ、今も親の残した古い一軒家に一人で住んでいるという。

コンチワの家は築80年が経過し、まるで映画に出てくるお化け屋敷のようだった。歩くたびに床はギーギーときしみ、天井はいたるところ抜け落ちている。部屋には彼女が描いたバラの油絵が雑然と置かれ、アトリエには描きかけの絵や固まってしまった古い絵の具、油の入った瓶が散乱している。もう何年も階段を上がっていないのだろう。二階に上がる階段の前にはほこりまみれの壊れたイーゼルが放置されていた。ブルガリアは1989年に共産党政権が崩壊して民主化された。経済は上向きになったが福祉はおざなりにされ、所得の少ない高齢者は極貧の生活を強いられている。コンチワもまたわずかな年金を頼りに親から引き継いだ家を守り続けてきた。画家として高等教育を受け、奨学金を得て留学し、海外で巡回個展を開くほど有名な絵描きだった。独身を貫き、ただひたすらにバラの絵を描くことに全精力を注いできたが、それも長くは続かなかった。年齢とともに徐々に絵は売れなくなり、さらに不幸なことに七年前に交通事故に遭ってからは松葉杖の生活となり、歩行が困難な身となる。事故以来、一枚も絵を描いていないという。僕はこの孤独なアーティストに心を奪われ、一週間のカザンラク滞在中、毎日欠かさず彼女の家に通うことになった。

紅茶を飲みながら、彼女は目を輝かせて若かりし頃の留学や個展の話をし、僕は日本のことや自分が撮っている写真の話などをして過ごした。事故後に絵を描かなくなってしまった理由を知りたかったが、なぜか聞いてはいけないような気がして、どうしても切り出せなかった。部屋にある古い花瓶には庭で摘んだバラが生けてある。ある時、毎日バラが変わっていることに気がついた。庭に屈んで花を摘むのは彼女にとって辛い作業のはずだ。いつもそうしているのか、それとも僕が毎日訪ねて来るからなのかはわからない。プライドが高くて気丈な彼女は絶対に辛い表情を見せないし、他人の助けを借りようとしない。訪問するたびに塀の外から窓越しに見える孤独と寂しさに満ちた彼女の横顔はすべてを物語っていたが、僕の顔を見ると途端に笑顔になるのだった。

帰国の前日、彼女の苦しい生活を目の当たりにしてきた僕は、思い切って聞いた。「あなたには助けが必要だと思う。誰か頼れる人はいないの?」・・・長い沈黙のあと彼女は重い口を開きはじめた。近くに身寄りはなく、唯一弟がソフィアに住んでいるという。しかしその弟も職がなく、たまにやって来てはコンチワの数少ない絵を持ち帰っていくのだ。僕らは無言になった。少しでもいい、何か助けになってあげたいと心の底から思う。しかし僕は異国からの一旅行者に過ぎないし、仕方のないことだが何もしてあげられない。それどころか、もう二度と会うこともないかもしれない。おそらくお互いに同じ思いだったろうと思う。暗い気持ちのまま彼女の家を後にした。
翌日、宿をチェックアウトし、コンチワに最後のあいさつに行く。足どりは重い。塀越しに部屋の中を見ると、彼女は腰を曲げて立ち、絵を描いていた。いつもの寂しい横顔ではない。頬を紅潮させ、何かに魂を揺さぶられているような生気みなぎる顔だった。部屋に入ると、床に置かれた花瓶にはいつものように摘んだばかりのバラが生けられている。椅子をイーゼルがわりにしてキャンバスが立てかけられ、細い身体からは想像もつかないエネルギーが筆先に集中しているのがわかる。彼女はあいさつもなしに一時間も描き続け、僕は横に座ってただじっとそれを見ていた。なぜ7年ぶりに絵を描いたのかわからない。僕の存在がそうさせたのか、「私は強いの、大丈夫」という表明だったのか。一時間後、くすんだキャンバスにはコンチワ自身が練り込まれているピンク色のブルガリアンローズが咲き乱れていた。絵具で汚れた手を拭うと、いつものようにゆっくりと椅子に腰掛ける。手を貸そうとしたがやはり制止された。お互いに別れの辛さを感じないように礼を言いあい、僕は彼女の家を出た。

バスに乗り、バラ畑を見ながら再び国境に向かう。国には色があると思う。インドなら乾燥した大地の黄色、トルコは地中海の深いブルー。僕にとってブルガリアはヨーグルトの白でもなく美女のブロンドでもなく、片隅に小さなピンクのバラが咲く灰色だった。
(2007.6)