世界の遠近法(2) ニッポンのおばちゃん

 足袋ともんぺがよく似合い、底抜けに明るくて、よく笑い、よく泣く。すべてが明け透けで人の世話を焼くのが大好き。僕が頭の中で勝手に描いている田舎のおばちゃん像だ。東京で生まれ育った僕にとって、田舎はずっと憧れだった。小学生の頃、夏休みが終わってひと月ぶりに友だちと顔を合わせ、日に焼けたまっ黒な顔で「田舎のおばあちゃんの家へ行って毎日川で泳いだんだ」なんて言われ、自分にはなぜ田舎がないのだろうと真剣に悩んだこともある。抜けるような青い空に入道雲が湧き立ち、アブラゼミの合唱をバックに、涼しい縁側でおばあちゃんにうちわを扇いでもらいながら麦茶を飲んでいる夢まで見る。そんな潜在意識があるからか、数年前から21世紀の田舎の集落をテーマに写真を撮りはじめた。
 カメラや三脚を担ぎ、電車やバスを乗り継いで地方に向かう。しかし、残念なことに、自分のイメージする田舎に巡り合うことは決して多くなかった。国道沿いの大型ショッピングセンターや派手なネオンのパチンコ店、コンビニや携帯電話ショップがそのイメージを曇らせる。インターネットの普及によって、情報の量やスピードは都会と変わらない。欲しいものも簡単に手に入る。人との関わりについても、どこか関係を拒んでいるかのような都会の空気が田舎にも広がってきているように感じた。また、後継が存在せずに放棄された農地や、シャッターが降りた商店街を見て地域格差を実感する。撮り始めたころは、惹きつけられるものがなく、人との触れ合いもできずに一日中田舎を歩き回り、全く写真を撮らずに帰ってくることもあった。
 数ヶ所を巡ったあとに残ったのは、今や日本の風景や人の生活は、土地特有の垢や泥の匂いが失われつつあるのではないかという不安だった。もう少し細部に深く入りこんでみる必要があると考え、長時間滞在して人と接してみる方法に切り替えた。初秋の舞鶴。一日に数本しか走らないローカルバスを乗り継ぎ、山をいくつも越えて人里離れた小さな集落に向かう。あぜ道を歩き、農作業中のもんぺのおばちゃんに声をかけ、何でもいいから話しをし、何でもいいから聞く。スローに、スローに。訛りがキツくて、言っていることの半分しかわからないが、そんなことはどうでもいい。ようやく打ち解けはじめたころに、周囲の田畑にいたおばちゃん達が二人、三人と集まってくる。「そうかい、はるばる東京から来たんかい。で、こんなところに何しに?」とおばちゃん。「ここに美人探しに来たんですよ。すぐに見つかってよかったです。」と答えると田んぼは爆笑に包まれる。いつの間にかあぜ道に座って皆でお茶を飲んでいる。いつの間にか農作業を手伝い、そしていつの間にかおばちゃんの家にいる。これを食べなさいといってお茶とともに出された果物の実。恥ずかしながらこの歳になるまでアケビの実を見たことも食べたこともなかった。おばちゃんにからかわれながら食べてみる。独特な舌触りを感じたあとに、淡白な甘さが口いっぱいに広がる。疲れが出たのかあくびをすると、いいから横になりなさいといわれて、藤の枕を出してくれた。僕が憧れてきた田舎が、まだしっかりと息づいているのを感じた時間だった。
 日本の集落の高齢化、過疎化が急速に進んでいる。全国62,273の集落のうち、65歳以上の高齢者が半数以上を占める集落が7,878、10年以内に消滅する可能性のある集落が423、いずれ消滅する可能性のある集落が2,220もあるという(国土交通省「過疎地域等における集落の状況に関するアンケート調査」2007年1月中間報告)。自分が憧れを抱いてきた田舎の原風景が失われていくことに胸が痛み、せめてこの目と写真に焼き付けておきたいと思い、現在は限界集落長野大学の大野晃教授が提唱した概念で、人口の50%以上が65歳以上の高齢者となった集落)を中心に訪問している。
 主がいなくなって朽ち果てた家屋が点在し、居住者は一人の老人と犬一匹という寂しい集落を訪れたこともある。この老人がいなくなれば集落は消滅する。後継者の多くは都会暮らしを選び、徐々に高齢者だけが取り残され、集落は消滅していく。いつの日か、夏休みに田舎で川遊びをする子どもが見られなくなってしまうのかもしれない。しかし、一方では都会の生活が肌に合わない若者がIターンで安価な土地と家屋を購入し、先住の高齢者から手ほどきを受けながら田畑を耕してにわかに活気づきはじめた集落や、数少ない青年たちが団結して、放置された畑を蘇らせたり、となりの集落の高齢者の作業を手伝う姿も目にすることができる。こうした集落を訪れると、土地を愛する心や結束力は消えていくどころかむしろ強くなってきているのではないかと思わせてくれる。文化行事も変わらず盛んで、人口がどんなに少なくなっても祭りや行事は欠かさない。結束と互助こそが集落の核であり、それには世話焼きで笑顔が絶えないおばちゃん達の存在が不可欠である。人の背中を叩きながら笑い転げる。苦労を決して表に出さず、ただただ笑って周囲に気を配り、ご馳走を振舞うおばちゃん。共に笑い、共に泣き、一緒にいるとなぜかほっとするおばちゃん。おばちゃんの笑顔は集落の原動力であるとともに、僕自身のエネルギー源にもなっている。
 山形県の某集落。月曜日と木曜日の週2回、軽トラックが鐘を鳴らしながらやってくる。魚や肉、乳製品や菓子などを販売する移動スーパーマーケットだ。山間部に位置するこの集落では、町に出て買い物するのもままならない。鐘の音とともに、おばちゃんたちがぞろぞろと家から出てくる。単なる買い物の場にとどまらない。互いの顔を見れば健康状態がわかり、来なければ皆が心配して訪問する。トラック前での井戸端会議は一時間以上続く。あるおばちゃんが、菓子パンを買い占めていた。明日から孫達がやってくるのだという。あんたも孫みたいなもんだから、と言って僕にも菓子パンを買ってくれた。