レビューサンタフェ (Review Santa Fe) 2013 メモ2

僕はアメリカに住んだこともないし、今回のサンタフェ滞在はたったの一週間。実体験が知識に追いついていないが、その中でも、自分なりに見て感じて検証できたこともあるのでメモしておこうと思う。



僕のような素人でも、日本とアメリカで芸術の身近さというか、生活への染み込み度に大きな差があることは感覚的にわかってはいた。文化の違いと言ってしまえばそれまでだとは思うが、数百件のギャラリーがひしめくサンタフェの街を歩き、レビューを受け、現場の空気を感じるにつれ、その抽象的な感覚は具体的なものに変わった。例えばアメリカには美術館が2000以上、日本は400弱。ほとんどの日本人にとって、美術館はまだまだ特別な場所であって、決して身近なものではない。アメリカでは、時間が空いてどこかに行こうとした場合、選択肢の中に美術館が入るという。特別なものを鑑賞しに行く場所ではなく、本屋に行くような感覚に近いのかもしれない。


今日なにげなく美術館で見てきたものが、その晩に家族の食卓で話され、会話が生まれる。そして小さいながらも世論が作られる。美術館も自分たちの企画によって、社会に玉をなげたり揺さぶりをかけようとする意識が高いのではないか。とすると、美術館の展示内容に欠かせないのは社会性ということになる。もちろん、歴史的に優れたものや、希少価値のあるものを展示収集していくことも大切だが、いわゆる現代写真に求められているのは「社会性」。写真家自身もこれを認識しながら創作しているし、自分の作品を使って誰を巻き込んで、どう社会に働きかけていくかといったマーケティングができているようだ。


そういえば、サンタフェでレビューを受けた美術館のキュレーターや写真集の出版社は、写真を見ながら今の日本の社会に関する質問を投げかけてきた。写真と社会問題の結びつき、解釈を探っているのだ。

(一口に「社会性」といっても人によって解釈が異なるので難しいけど、主流になっているのは、特定の時代背景や場所、事象などがはらむ問題をあまりストレート表現でなく浮かび上がらせる写真で、Pieter HugoのParmanent Errorとか、Alec SothのSomewhere to Disappearのシリーズに見られる感じ。)



日本の多くの写真家にとって展示、販売先として美術館は決してポピュラーでないのが実態だと思う。まず意識するのはやはりギャラリーで、自分の写真に合ったところを探す。問われていること(求められていること)自体が薄い。というか、求められていない。もちろん作家自身は傾向とか主流とか、国や歴史からの文脈とかを意識しているにせよ、そこには求められている感覚は薄い。写真界全体も、バラバラと自然派生的に出てきた写真を、共通指標なしに批評し、取り上げている感が否めない。これは良いとか悪いということではなく、日本はそういう土壌であるということからスタートになる。そして物差しがなく、また求められていないからこそ、幅が広く、面白い作品が生まれる可能性があるとも言える。ただ、長い目で見ると、野太い串の通った歴史文脈というものが生まれにくいのではないだろうか。



一方、アメリカのギャラリーについては数も多く嗜好も豊富で、そういう意味では商業的に「求められる」幅も広い。日本人の写真家はコネクションさえ作れば切り込めるチャンスが多分にあるのではないかと感じる。ただ、このコネクションというのが難しそう。そもそも持ち込み営業は難しく、誰かの強力なツテをたどるか、現地の横の繋がりに入りこむか、レビューなどを通じて接点を作っていくしかない。


長く西海岸を拠点にしている写真家に聞いたら、同じアメリカでも東と西では色々と異なり、全土で活動するのは難しいらしい。例えば東海岸のコンペなどに応募してもすんなりとはいかないという。審査員と元々つながりのある東の写真家が結果的に有利になっているという。もちろんそれだけで決まることはないと思うが、意外に日本的な感じがして面白い。そして、やはりここでもリアルでのコミュニケーション力が問われる。



余談だけど、語学力がないためにコミュニケーションがとれないもどかしさを強烈に感じたサンタフェだった。話したいこと、聞きたいことがたくさんあるのに、悔しい思いをした。レビューをきっかけに仕事の交渉が始まったが、周囲の助けを借りながらすべて英語でこなしていかなくてはならない。

海外でも活動したいと考えている写真家は、まずは英語力が必須です。機材を買うお金は英会話に回した方が・・・